思弁和歌山VS思弁学園

もうすぐ結婚するから、ずっと頭の中にあった男と女についての話をしてみよう。

私は現在まで多少の恋愛をした。

8年間の惨めな片思いとか、それと並行して進めた性体験への奔走とか、そのあと始まった東京での物語とか、またそれが終わったあとの自傷的な淫蕩の日々とか。ひとつひとつを語ることはプライバシーの侵害にもなるからしないけど。

私はそれらの日々の中で“頑張って”恋愛をしようとしたこともあるし、セックスだけで無差別に人と繋がろうとしたこともある。特定の1人と関係を持つこと、複数の人間と並行して関係を持つこと。歪んだ性的嗜好とそれでしか癒せないものを持っている人がいること、取り返せない過去や育った環境からそうせざるを得ない人が多くいること。異性との関わりの中でもがいてもつれてこんがらがった日々の中で私は学び、成長したと思う。今の私を形作っていると思う。

それで結局のところ、あくまで今現在は、誰か1人を選ぶことはそうじゃないことで得られるどんなことにも敵わないと思っている。

社会では倫理に悖ることが良しとされていない以上、そこから外れる行動をする人間が幸せになってはいけないという仕組みになっている。それは雑に言い換えれば他人にさえ迷惑をかけなければ各々が各々の幸福を実現するべきということ。

1人を選ばないスタンスは結局そこから外れていることなんだろうと思う。私がそうであった時のことを思い返すと、今よりも“楽”であったように思う。当然、自分を探るということをしているのだけど、それでも“それだけ”しかしていない。誠実に自分と向き合い、相手とも向き合った人間だけが得られる幸せがあってもいいじゃないかと思う。配慮と想像の努力が作る幸せだ。

そしてこのことは、そうじゃない人に対して「まだそこにいるんだ」とか「昔は俺もそうだったよ」と、現在と過去、他人と自分を比べているのではない。今も私の中に存在することとして捉えている。人間は楽をしたくなる。1人を選ぶことは配慮と想像をしながら生きること。それをしなければ破綻する幸せでもある。

覚悟を持って生きようじゃないか。